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安曇野天蚕センター [安曇野と産業]

安曇野市穂高有明地域では、野生の天蚕を飼育・収繭・製糸・紬・染色・織など一連の作業を行なっている。天蚕は家蚕に対して、山野に自生しクヌギやナラを餌として緑色鮮やかな繭(まゆ)を作り、家蚕に比べて強伸力に富み・光沢優美で「糸のダイヤモンド」と言われ、その品位と希少価値は軽くて温かい肌ざわりの特性を生かした最高級品として織物生産地から別格の評価を得ている。
この天蚕の内容を詳細案内展示し、天蚕の歴史や生態をビデオで確認でき、無料で入館できる「天蚕センター」を紹介します。
「安曇野市天蚕センター」
*場所:案内図参照・・安曇野市穂高有明3618-24
*料金:無料
*開館時間
 ・4月~10月:9時~17時
 ・11月~3月:9時~15時
*休館日:月曜日・祝祭日の翌日・年末年始・・・臨時休館することがあります
*Tel:0263-83-3835
*天蚕工房にて手機織りの実演見学が可能
*天蚕センターの近くに天蚕の飼育場所があります
 ・5月上旬~中旬頃:孵化の様子 ・50~60日後(7月~8月):繭作り


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信州サーモン [安曇野と産業]

いま信州で注目・話題アップの「信州サーモン」について紹介します。
長野県水産試験場(安曇野市明科)が約10年かけ開発したマス類の新しい養殖品種が話題の信州サーモンです。この品種は”ニジマス”と”ブラウントラウト(ヨーロッパ原産のマス)”をバイオテクノロジー技術を用いて交配した一代限りの品種だそうです。
  ニジマス     X    ブラウントラウト    =信州サーモン
   ・育てやすい        ・ウイルス性の     ・両方の長所を持つ
   ・肉質がよい         病気に強い
*特徴
 ①体色が銀色で美しく、サーモンのような紅色の身でニジマス比べて肉のきめが細かく
   肉厚で豊かな味わいです。
 ②卵を持たないため産卵に要するエネルギー(栄養)がそのまま美味となり、いつでも
   おいしく食べられる高品質で安全な信州のブランド魚です。
 ③稚魚から約2年で全長50~60cm・体重1.5kg~2kg程度に成長する
 ④ニジマスがかかり易い魚の病気にも強く、繁殖能力を持たないため、万一自然界に
   出ても繁殖しません。
 ⑤サケ・マス類と比べて高タンパクで低脂肪低カロリーでヘルシー食材です。
 ⑥信州サーモンは寄生虫の心配がないので安心して刺身で食べられ、和・洋・中いずれの
   料理にもマッチする食材です。
*詳細については・・長野県水産試験場のHPこちらを参照ください。
<記載内容>
  1.「信州サーモン」と命名されました
  2.信州サーモンのご紹介
  3.信州サーモンってな~に?
  4.信州サーモンができるまで
  5.信州サーモンとサケマス類の成分比較
  6.信州サーモンを扱っている店
  7.信州サーモンQ&A

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わさび田とにじます養殖地の案内 [安曇野と産業]

清冷な湧水を利用した「わさび栽培」と「にじます養殖」は安曇野の有名な産業のひとつです。特にわさびは日本一の生産を誇っています。
下記の案内図で示すように穂高川と万水川付近に集中しています。案内図にあるように”わさび田”と”にじます養殖”は隣接しており湧水がどのような場所で湧き出しているかがわかります。この場所はサイクリングコース・ウォーキングコースにもなっています。

*写真①:大王わさび農場
  ・観光でも有名なわさび園でわさび栽培のための合理的な美しい水の流れになっています。
*写真②:穂高川わさび園
  ・穂高川に沿ったわさび田で、川沿いの道に早春賦歌碑もあり桜の咲く頃は見事です。
*写真③:にじます養殖の模様です

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安曇野と湧水 [安曇野と産業]

安曇野は北アルプスの山麓に広がる複合扇状地です。
常念岳から流れ出る烏川は南西から北東に、燕岳や有明山に源を発する中房川は北西から南東に向かって運んできた土砂の堆積による広い扇状地の里である。扇状地の特色である川の水は平地に出ると地下に浸透し伏流して地下水となり、扇状地の河川は水無川状態になり扇端部で地下水が湧出る水郷地帯になる。
安曇野の中でも穂高地区は最も低い標高550mぐらいで、この地域の扇端部で湧出る水は日量70万トンともいわれ夏場でも水温が15℃を超えることはなく、環境省の名水百選の一つに選定されている。この湧水を利用して、わさびの栽培・にじます養殖が行なわれています。

「わさびアラカルト」
*わさびは、常に最適水温13℃と清冷さがないと育たない、それより水温が高くとも低くとも病気になったり腐敗してしまう、その点安曇野の湧水はわさび栽培に最も適している。
*安曇野のわさびは他とのちがう特色は茎を主にしたものでなく、芋を主とした高級品のわさびで茎は少なく混ぜた本物の良さを生かしたわさび漬けの味を守っている。
*わさびの花が咲く頃は3月下旬から5月で、大根に似た可憐な白い花が咲きます。この頃は葉や茎花に熱湯をかけて食べもよく、結構オツな味わいがあります。
*写真:わさびの花です

*「四季・安曇野」の歌:こちらから

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拾ヶ堰の要所案内 [安曇野と産業]

「拾ヶ堰の要所写真案内」
約15kmにおよぶ拾ヶ堰は四季を通して安曇野を潤していますが、今回は5箇所に区分して拾ヶ堰の様子を写真でご案内します。
また拾ヶ堰は地元の人にも親しまれており、拾ヶ堰に沿って「あづみ野自転車道」が整備されていて周りの景色を見ながらサイクリングやウオーキングを楽しむ人も多く見られます。「あづみ野自動車道」については後日あらためて案内します。
写真案内・・・場所の照合は下図の”案内図”参照
*A部分:奈良井川本流からの拾ヶ堰取り入れの様子
*B部分:豊科地域の下鳥羽と高家飯田付近
*C部分:中堀金地域の外川分水口及び堀金小学校付近
*D部分:下堀金諏訪神社付近と高い場所へ水を送るポンプ小屋付近
*E部分:穂高柏原・日吉神社付近と穂高烏川合流付近
参考資料
*「安曇野と拾ヶ堰」「安曇野大紀行」より・・・著者:北野進 氏

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拾ヶ堰の測量技術について [安曇野と産業]

「測量技術の背景」
江戸時代の測量技術は「町見術」「量地術」「規矩術」などと呼ばれていた。「測量」というのは中国の古い言葉「測天量地」を縮めたと書かれたものもある。「測天」は天文観測の「測る」であり、「量地」は土地を「量る」と区別していて江戸時代には「量地術」という言葉が使われて、一般に「測量」という言葉は使用されていなかったようである。
測量技術では水平を出すことが最も重要でり「水を盛る」とか「水盛り」とかいう言葉や「ろく」とか「ろくでなし」というものも測量の用語に関係がある。「ろく」という言葉は江戸時代には「直・正・陸」などの文字が当てられており、水平・平ら・まっすぐという意味であり直線や平面に対して垂直なときにも用いていた。したがって測量では鉛直・垂直・まっすぐ・水平などを含めて「ろく」といっていた。
「拾ヶ堰の測量技術」
拾ヶ堰を計画するとき、中島輪兵衛や平倉六郎衛門はどのような測量技術をもっていたのか不明の部分も多いいが、下図の参考資料に示してある保管されていた当時の「測量器」から想像すると、測量器を基準点に据え付けて中央の溝の部分を利用して「水盛り」をして水平をだしたのであろう、その方法は前方の目標地点に竿をたてて測量器から見通して何尺何寸(現センチ)の高さを測定して、それによって目標地点が基準点より何尺何寸高いか低いかを計算したと考えられ、この測定器を用いて描いた測量図面は中島輪兵衛の記録(古文書)と一致している。
この時代は松本藩には独特の測量術があり、伊能忠敬が全国的な測量をする時期でもあり、江戸などではもっと上等な測量器を使っていたようである。それらと比較すると中島輪兵衛の測量器は雲泥の差はあったが、この素朴な測定器を使って拾ヶ堰が計画されたころには信州の地形的特色があり民衆のエネルギーと大きな努力の足跡が感じられる。

*参考資料
 ・「安曇野と拾ヶ堰」「安曇野大紀行」より・・・著者:北野進 氏
 ・測量器、測量の様子図・・・「安曇野と拾ヶ堰」より

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拾ヶ堰の概要 [安曇野と産業]

拾ヶ堰は約190年前(江戸時代・文化13年(1816年))に当時の10ヶ村に及ぶ灌漑面積約1000ヘクタール、全長約15kmの灌漑用水です。
その流れは現在の松本市島内地域の奈良井川の水を取水し梓川を横断(大正時代に地下トンネルの逆サイホン式に改良)し、安曇野市穂高地域の烏川にいたり、豊かな流水として安曇野を潤しています。ここでは堰の概要と拾ヶ堰ができるまでの内容を簡単にご案内します。
*当時の拾ヶ村
  吉野村・成相町村・新田町村・上堀金村・下堀金村
  柏原村・矢原村・等々力町村・保高町村・保高村
「堰(せき)」について
堰とは土木学会の用語では「せき止めるものの構造物」とあるが、江戸時代では川の本流をせき止めるような強固な構造物を造ることは技術的に困難であった。
当時、信州や東北地方では小さな用水路も「せぎ」とか「せんげ」とか言っており、「拾ヶ堰」では川の本流に取水口(頭首工)をつくり、次第に嵩上げした水路をつくって分流する工法を工夫している、したがって用水路には取り入れ口から少し離れた位置に簡単な水門を造ることはあったが、強固な構造物を設けることができなかったので、今日的言葉の「堰」は江戸時代には別の意味をもっていたようである。
「拾ヶ堰ができるまで」
安曇野には自然の川の流れから分流した小川「せんげ」を随所に見ることができる。人々は昔から水田を開拓し灌漑用水路をさまざま工夫してきた(これらを「縦堰」とも呼ぶ)が、農業生産の拡大につれて耕地面積を拡大するべく緩やかな流れ「横堰」を試みる時代がやってきた。
江戸時代、安曇野には代表的な横堰は「矢原堰(1653年開通)」や「勘左衛門堰(1800年開通)」などがある。拾ヶ堰の具体的計画の出発点は文化9年(1812年)で、当時の時代的背景として勘左衛門堰の大改修工事が寛政10年(1798年)から寛政12年(1800年)にかけて、下堀金村の平倉六郎衛門によって行なわれ、この影響が安曇平に波及し近隣の村々を刺激し具体化されたといわれ、何故なら勘左衛門堰の改修工事担当者の六郎衛門の技術的体験が拾ヶ堰計画と無関係でないとされている。
この新しい計画を当時の大庄屋・等々力孫衛門の家に下堀金村の六郎左衛門と柏原村の中島輪兵衛とが集まり、拾ヶ堰構想を松本藩に申し入れし、現地調査をしたいきさつが「中島輪兵衛の記録」資料として残されている。このような経過をへて開拓された拾ヶ堰はこのような先人の努力が結晶したものであるが、それは当時の測量技術によるところが大きく、このことは次回に案内します。
”拾ヶ堰についやした内容”
・工事参加延人員:67,112人
・総工費:816両
・文化13年(1816年)2月から5月までの3ヶ月の突貫工事で竣工

参考資料
・「安曇野と拾ヶ堰」「安曇野大紀行」より・・・著者:北野進 氏
・「拾ヶ堰の位置」・・・下記、案内図

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拾ヶ堰と安曇野(はじめに) [安曇野と産業]

安曇野は長野県屈指の米どころでしられており、水田の広がりと北アルプスの景観の美しさは安曇野の代名詞にもなっています。ここで生産される「こしひかり」「しなのこがね」をはじめとして日本を代表とする銘酒の原料米「たかね錦」「美山錦」などは、先人の努力の積み重ねが今日に繁栄されています。その歴史の中で今から約190年前、江戸時代・文化13年(1816年)に完成し、当時の安曇野拾ヶ村に関係した灌漑用水「拾ヶ堰」が安曇野に新田開発を促進させ永い歳月を経て安曇野に豊かな田園と水と緑の町並みを造り、人々の心に生活のゆとりができ文化や芸術の創造へと発展して安曇野の産業や文化の豊かな稔りの原点であるとも評価されています。
それは安曇野を有名にした道祖神も江戸時代後期以降に造立されたものが多く、これらも拾ヶ堰と農業生産拡大という発展段階と無関係ではないと考えられていて、拾ヶ堰は水の流れと共に四季折々に育まれてきたものであり、190年前人工的に大地へ組み込まれ安曇野の自然を大きく変えてきた安曇野の産業と文化の動脈である。
そこでこの「拾ヶ堰」開拓の歴史を下記の項目で3回に分けて、ご案内します。
 *拾ヶ堰の概要
 *拾ヶ堰の測量技術について
 *拾ヶ堰の要所案内・・・写真掲載
参考資料
 ・「安曇野と拾ヶ堰」「安曇野大紀行」より・・・著者:北野進 氏

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