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黒沢川扇状地 [歴史・伝説]

「官林・りんご園」
三郷・梓川地域の西側の黒沢川からの流れが黒沢川扇状地を形つくっているが、川は途中で流れが消え扇状地特有の尻無川となっている。この扇状地は現在りんご園が広がる有名な、りんご産地となっているが、江戸時代は松本藩の藩有林で一面に赤松の樹海が広がっていて、殿様一行が麓の林を散策したり、きのこ狩りを楽しんでいた所であった。その当時松本藩は小倉村をはじめ六ヶ村に藩有林の入会権を与え落ち葉拾いや松茸などを無料で捕らせたが入林には厳しい制限をしていた。
明治時代に入り国有林となって住民への入林制限は依然と厳しく落ち葉拾いや、きのこ狩りが有料になり住民の憤激を買うことになり、住民の間で官林払い下げの請願運動が繰り返され大正時代にようやく願いが叶えられた。それは日清・日露戦争などで食料増産が必要になった政府が全国の国有林を整理し農作物を生産する開墾地に転換する方針を打ち出したからである。
大正8年に七ヶ村が開墾組合を結成し開墾に着手したが開墾は七ヶ村の希望者(地主)だけでなく広く募集をし移住者(小作人)も加わり始められたが開墾は想像以上に厳しく、赤松が生えていた跡の土壌は思いの外やせていて作物の育ちは悪く収穫は少なく小作料の徴収で、この地は小作争議が毎年続いた。昭和2年に降旗慎作を代表にした日本農民組合小倉支部が結成され、地主との話し合いが続き全国的な応援も得て昭和11年に和解が成立したが、この地は農作物に必要な水の問題はなかなか解決せず住民は大変苦労した。
黒沢川扇状地の水の解決は太平洋戦争後の中信平土地改良事業により、梓川から水を取り入れ松本平最大の横堰工事「梓川水路」が梓川・三郷・堀金地域の黒沢川扇状地の扇頂部を貫通してからで、昭和48年スプリンクラーや畦間灌水施設が完成したことにより、やせていた土地が今や広大な、りんご園に一変し、梓川・三郷地域は”りんご園”で活路を開くべく住民一体の活動になっている。昭和62年から「アップルマラソン」「りんごの木・オーナー募集」などのイベントを行なっていて観光地として脚光をあびている。

*安曇野の・りんご園・・・こちらから
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中房川扇状地 [歴史・伝説]

「天蚕」
中房川扇状地の有明地方は天蚕の生育地として有名である。天蚕は家蚕に対して、山野で自生する緑色鮮やかな繭(まゆ)を作る。有明は天蚕の成育に適した扇頂部に位置し、土地がやせていることから天蚕の餌になる、クヌギやナラの生育が悪く木が高くならず食べやすい、やわらかな葉をつけ、日当りも風通しも良く病害虫の発生も少ない条件に恵まれていた。
天蚕飼育は江戸時代の天明年間(1847年頃)といわれ、愛知方面から技術者を招いて、有明の農家の主婦や女子に天蚕製糸の技術が伝えられ、製糸を全国各地に販売したり有明紬を製品にして有名になった。明治時代に入り有明の曽根原林三氏が関東各地に出向き、飼育法・製糸法などを広め、明治30年代に天蚕飼育は全盛期を迎え、約3000ヘクタールの飼育林では足りず関東地方にまで飼育林を広げた。当時糸の主な販路として、岐阜・越後の見付・京都西陣・群馬の桐生などがあった。
その後、時代の変化に伴い衰退の一途をたどったが有明紬は継承され、昭和50年有明紬は信州紬の中の伝統工芸品に指定されて有明に、天蚕センターが建設され地場産業として現在に至っている。
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烏川扇状地 [歴史・伝説]

「米」
安曇野は水田の広がりと北アルプスの景観の美しさは、安曇野の代名詞となっています。このような米どころになったのは用水堰開拓にかけた住民の並々ならぬ努力があった。
烏川扇状地を下る水は冷たすぎ利用できる水量も少なく、多量の水が地下水になってしまい好ましくなかった。このような状況から江戸時代の文化13年(1816年)に奈良井川から入水した横堰を約15km開削した”拾ヶ堰”が完成した事は、安曇野に新田開発を促進させ、住民の生活を大きく支える重要な役割を果たした。
この堰が生まれる前の安曇野は貧しく、安曇南部の25ヶ村では毎年松本藩に対して御救助米の嘆願書が出され、良い土地を求めて故郷を離れる農民も多かったと言われており、そのような事からも非常にインパクトを与えた拾ヶ堰であった。
*拾ヶ堰の詳細・・・こちらから
*私のホームページを更新しました:新曲「お日さまの魔法」・・こちらから

「わさび」
烏川扇状地の扇端部は上の方で地下浸透した地下水が湧出る湿地帯で農業には向かなかった。この湧き水を利用したのが”わさび栽培”である。
わさびは冷涼な気候を好み、この地は伏流水が豊富に湧出て清冷な水が年間を通じて13℃を適温とするわさび栽培に適していた。この不毛だった土地を、わさび田にしようとしたのが穂高に住む深沢勇市氏で、彼は大正4年現在の大王わさび農場一帯を借り受け全財産を抵当にして事業に取り掛かった。まず土地を掘り下げ土砂や小石を犀川側に積み上げそれを堤防代わりにして犀川の水をせき止めるという治水事業を伴う工事で、農閑期の地域農民も投入するという大事業を10年かけ15ヘクタールのわさび畑「大王わさび農場」を完成したと言われている。この事業では、わさびの厳しい育成条件に適するように清冷な水を絶えず流れるように工夫を施した幾何学模様の地形を考えている。
安曇野の観光地として人気を集めている大王わさび農場に初めて訪れた人は、わさび畑の広さに感嘆し、緑のわさび・白い砂礫とその間に絶え間なく流れる水の美しい情景に驚くのである。現在穂高地域・明科地域の犀川・穂高川一帯に、わさび栽培地は分布している。尚、この清流を利用した”ニジマスの養殖”も、わさび畑と隣接して盛んである。
*わさび田とにじます養殖地案内・・・こちらから

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複合扇状地と産業 [歴史・伝説]

安曇野の複合扇状地は日本の主な扇状地の中でも最も見事な扇状地だと言われている。北アルプス槍ヶ岳から北へ流れて大町市に至る高瀬川扇状地、同じく槍ヶ岳の東南から流れ出て上高地・松本市へ至る梓川扇状地の一部、餓鬼岳・東沢岳などからの乳川扇状地、燕岳・大天井岳などからの中房扇状地、常念岳・蝶が岳などからの烏川扇状地、黒沢山・天狗岩などからの黒沢川扇状地と、その広さと形は見事である。
それは住民の生活が豊かとは直ぐに言えず、むしろ扇状地は農業には向かず安曇野は長く不毛の原野であった。それが現在のように米どころとして長野県1・2位を争うほどになり、その他の産業も発展して豊かになったのは、この地の先人たちが郷土に向けた鋭い眼と、たゆまぬ開発の努力があってのことで、人々は扇状地であるがゆえに貧しかった安曇野を扇状地の特徴を生かしていった。今回はこれら扇状地の内、烏川扇状地・中房川扇状地・黒沢川扇状地を取り上げて、3回に分けご案内します。
 1.烏川扇状地・・・米・わさび
 2.中房川扇状地・・・天蚕
 3.黒沢川扇状地・・・館林・りんご園

*複合扇状地の内容・・・下図案内図を参照

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千国街道について [歴史・伝説]

千国街道(ちくにかいどう)は別名”塩の道”とも呼ばれ、越後の糸魚川から信州の松本まで120kmあり、江戸時代に千国村(現在の小谷村・千国)に番所があったことからそう呼ばれている。
この道は古代・大和政権との軍事及び文化関係のつながりとして重要な道であり、もちろん物資(塩・魚類・米穀類・麻・たばこ・紙・油類・茶など)輸送としての道であり、仁科氏も糸魚川方面から入り木崎湖周辺に定着したと言われている。また戦国時代には武田信玄と上杉謙信との戦いの逸話から”塩の道”とも呼ばれたのである。
糸魚川から松本までの120kmのうち、糸魚川から大町まで85kmは東西の山々に挟まれた狭い一筋の道は古代から変っていないが、大町から松本までの35kmわずか1日の工程ながら大きく分けて三筋の千国街道が安曇野を貫いていて、それぞれの時代を違えて開通している。
古代は西山(北アルプス)の麓を通っていて、南から梓川(北条-小室)-三郷(小倉)-堀金(田多井-岩原)-穂高(牧-小岩岳)-松川(鼠穴-神戸)へと続く道で、安曇野の扇央地を見下ろす展望の素晴しい道であった。現在ではりんご園・温泉郷・美術館など新たな観光地をつなぐ道として注目されている。
中世になり千国街道の幹線になったのは安曇野の中央部を貫く道筋で、南から住吉庄から矢原庄へそして仁科御厨へと北上する、三郷・七日市場-一日市場-中萱・六日市場-豊科-穂高-池田・十日市場-大町・社-五日町-八日町へと通じた当時生まれた定期市をつないでいた。中世は多くの物資がこの道を通るようになり、仁科氏などは関所を設けて通行税を取ったとされている。
戦国時代になると松本からの安曇野への第一歩が豊科・熊倉から犀川を渡るようになり、江戸時代には梓川東岸に熊倉番所が置かれ、安曇野に出入する人々や物資が取り調べられたとされる。
このように時代を変えて開通した千国街道は安曇野の人々による開発歴史と集落の発達した形で道が開通してゆく様子がわかり興味深い。
*参考図・・・千国街道の予測ルート図

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仁科氏と安曇野(その2) [歴史・伝説]

仁科氏についての1級史料は大変少ないのが実情である。これを一志茂樹(1893~1985年)氏が未知の史料の発掘と、それまでの学説や史料に検証を加え、伝承や推定部分の多かった仁科氏研究や郷土史を一新した。
平安時代末期、仁科御厨(1051年頃)の管理人「御厨司」となり仁科神明宮を建立(年代不明)した仁科氏が”安曇歴史年表”に登場するのは約120年後の治承3年(1179年)の「仁科盛家が武蔵講師慶円などに千手観音像(藤尾覚音寺)を製作させる」時からで、翌年に源頼朝が伊豆で挙兵し木曽義仲が兵を挙げると盛家はこれに従い北陸道に転戦しており、この頃に館の内に居館を構えたとなっている。
鎌倉時代に入り、盛家の嫡男・盛遠の時代になると武士勢力が朝廷・貴族勢力を圧倒していくが、盛遠は弱体化した朝廷・貴族政権に忠実に従ったのである。また盛遠は中央での活躍と並行して地元で行なった大事業として仁科の庄(現在の大町市)の町造りにあたる。それは京都をまねて短冊形の町割りをし、道の真ん中に川を流し、居館を館の内から町の西方(現在の天正寺付近)に移し、仁科氏の祈願寺の浄福寺(現在の弾誓寺)も移転し、北端に仁科庄の鎮護のために熊野神社を勧請し若一王子神社を創建した。多くの京文化や禅宗文化が仁科氏の努力で安曇野に生まれたのもこの時期で仁科氏の洗練された美意識を伝え安曇文化として貴重である。
仁科盛遠は承久の乱(1221年)で敗れ、その後朝廷側に味方して敗北をくり返したが滅亡せず、その後信濃の守護として乗り込んできた小笠原氏の統治に抵抗し犀川沿いの武士を結集して大文字一揆の先頭に立って大塔合戦(1400年・盛房の時代)で勝利をおさめたものの文明12年(1480年)盛直の時代に穂高川の戦いで小笠原氏に敗れた。しかし逆境を重ねながら仁科氏は衰えるどころか次第に力を蓄え勢力拡大に努め、仁科神明宮の式年遷宮(21年に1度)をきちんとやりとげている。
このように鎌倉・室町・戦国時代の安曇野は仁科庄を基盤に勢力拡大に努めてきた仁科氏は、南は穂高から北は白馬の北域あたりまで勢力範囲として一族から分かれた支族として古厩氏を有明・堀金氏を烏川上堀・等々力氏を穂高・沢渡氏を白馬神域などに配置した。
大永8年(1528年)以降、武田統治下になった仁科氏は南安曇郡に安定した力を獲得していき、天文24年(1515年)以降、穂高神社の大旦那に就任(細萱氏から引き継ぐ)したことが大きく影響していった。その後永禄10年(1568年)仁科盛政は武田信玄により、上杉に内通したという理由で切腹させられ仁科氏の正系は断絶する。その後信玄の五男・晴清が仁科を継ぎ仁科盛信となる(「信濃の国」の歌に出てくる、仁科五郎盛信である)。仁科盛信は天正10年(1582年)高遠にて織田軍に攻められ自害し、事実上仁科氏の歴史は終わる。
このように仁科氏の安曇野における影響は大きく、仁科神明宮をはじめ神社仏閣及び多くの文化財を残している。そして安曇野の北に仁科三湖があり、北から神秘的な色をたたえた青木湖、小さく可愛い中綱湖、庶民的な木崎湖があるが仁科三湖の仁科の名も仁科氏の名声から名付けられたと言われ、この地の人々の思いが伝わってくる。
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仁科氏と安曇野(その1) [歴史・伝説]

安曇氏が「雄壮さ」「ダイナミズム」を安曇野に残したのに対して、仁科氏は「節操」「根強さ」「優雅さ」「洗練美」を残したと言われている。
仁科氏の出目や血筋については、平姓・源姓・阿倍姓などさまざまな諸説があるが(仁科氏は自ら「平氏朝臣」と名乗り、平氏と同じ「丸に揚羽蝶」の家紋が後世まで使われている)近年の研究や調査によって、始祖は大和朝廷の命によって越の開拓に当たった孝元天皇の第一皇子大彦命の後と言われる布施氏や小布施氏と同族の阿倍氏であるという説が有力になっている。
阿倍氏は蝦夷平定の兵站基地を求めて姫川をさか上り、木崎湖周辺に定着した。阿倍氏が仁科氏に苗字を変えたのは”安曇歴史年表”から「永承5年(1051年)頃、仁科御厨(みくりや)成立」とあることから、現在の大町市の社地域の南部が伊勢内宮の領地「仁科御厨」になり現地の管理人「御厨司」となって、仕事につく居館を御厨のすぐ北方の”館の内”集落付近に移り、苗字をここの地名に仁科と改めたのだとされている。そして仁科御厨の鎮護の神として、伊勢内宮より勧請された神社「仁科神明宮」を建立した。
仁科神明宮の建立された時期は明確でないが、御厨が成立されてから間もなくと思われる。仁科神明宮に所蔵されている”式年造営の記録”-棟札-の最古のものは南北朝の永和2年(1376年)であり、それ以前の棟札はおそらく造営のたびに棟札は処分されたか、あるいは作られなかったかもしれない。1376年は御厨成立から320年以上もあいており、治承4年(1180年)頃には、仁科氏が館の内に居館を構えていることから、遅くとも1180年ころには仁科神明宮は建造されたのではないかと想像できる。
仁科氏は村上郷(現在の大町市)に深く根ざし壮官あるいは地方武士団の棟梁として統治する一方、中央と直結して中央政治と係わりながら平安末期から戦国時代までの長期間、安曇野の歴史・文化に大きく影響を与えた。

*仁科神明宮(国宝)の案内は:こちらから
*私のホームページを更新しました:新曲「たんぽぽ・わたげ」・・こちらから

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安曇氏と安曇野(その2) [歴史・伝説]

安曇氏が安曇野に定着(570年頃)したのは複合扇状地の最も深い湖沼があったとされる現在の穂高の地であった。農業に適さない安曇野の中でも耕作地が広く分布している場所で、安曇氏が先住民族を指揮して労役に従事させるには大変なエネルギーが必要であったと思われるが安曇氏が持参したとみられる鉄製農具は開拓にあたって大いに貢献したと推測される。又この地の犀川では信濃川を遡ってくる鮭が大漁に捕獲されて京都へも献上されたと「延喜式」という書物に記されていることから、海人族の安曇氏が大きな役割をになったと思う。
安曇氏が移り住んで約100年後の天武12年(684年)頃、安曇郡が定められ高家(たきべ)・谷原(矢原)・前科(さきしな)・村上の四郷ができ、安曇氏は安曇郡の郡司として統治にあたり郡衙(郡役所)を八原郷(現在の穂高)に置き、歴史上初めて安曇野をまとめたのである。
そして西にそびえる山々(北アルプス)の景観の素晴しさに海人族の彼らの心は強く惹きつけられて、当時山脈全体を「穂高見山」と呼ばれていたのを安曇氏は山の開拓を行なった祖先の名を重んじて「穂高見命」と呼んで神として崇拝し、海人族時代の神「綿津見命(わたつみのみこと)」とを穂高神社に祀り安曇氏の祖神とした。この穂高神社は安曇野の原点というべき神社で安曇郡唯一の名神大社であった。
信濃国安曇郡における安曇氏の文献の初見は奈良東大寺正倉院所蔵の麻の布袴に書かれた記事によると、平宝字8年(764年)10月「前科郷(現在の明科・池田)の犀川丘陵の麓に展開した村落の戸主(へぬし)の安曇部真羊(ひつじ)という人が献納したのが、麻布一反(長さ四丈二尺・広さ二尺四寸)で、この献上の取り扱いをした役人が郡司主帳の従七位上・安曇部百鳥と国司史生の正八位上・中臣殖栗連梶取であった」と記されている。
安曇氏の史記は少なく概要は以上であるが、安曇氏が郡司等の地位を細萱氏が引き継いだのは明白でないが、室町時代において穂高神社の造営発令者の地位の記録に
・文明15年(1483年)2月3日:大旦那・盛知・政所通知
・長亨3年(1489年)2月1日:治部少輔・大伴盛知・通知(細萱氏の本姓は大伴氏である)
の記録があるので、約900年後の頃に安曇氏は中央・地元とも勢力を失ったと思われる。尚、穂高神社の大旦那の地位はその後、仁科氏に引き継がれていく。このように安曇氏の勢力は失ったにもかかわらず「安曇」の名は消えることなく、雄大なエネルギーを秘めた安曇氏の心が穂高神社や御船祭りに引き継がれ現在に至っている。

*穂高神社の案内は:こちらから。
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安曇氏と安曇野(その1) [歴史・伝説]

大和政権の命により服従しない越(越後)を支配下に収めようと、越と隣接する安曇野に遣わされた安曇氏は大和政権を支える連姓(むらじ)をもつ有力氏族であり、北九州を本拠地に中国・朝鮮と航海・交易・海軍の仕事に携わっていた海人族を統率して政府の仕事に従事し、絶えず大陸に渡って大陸文化を積極的に取入れた極めて先端的な国際的な氏族であった。
661年大和朝廷が唐・新羅の連合軍と戦った白村江(はくすきのえ)の戦いでは阿曇比羅夫が大軍を率いて朝鮮に渡り陣頭指揮にあたっている(比羅夫は現在穂高神社の若宮に祀られている)。また大和政権内の推古朝で僧侶を統制する僧正・僧都に次ぐ法頭(はっと)の職にあり、大化改新後は宮中の食事を用意する内膳職につくという、海人族統率だけでなく多彩な能力を発揮したと云われている。
このように大和政権とつながりの強い安曇氏が安曇野に移住してきたことは、安曇野の発展に決定的なインパクトを与えたとおもわれる。
*参考資料
・「新撰姓氏録」にみる安曇連(連姓)は綿積神兒穂高見命(わたつみのかみのこほたかのみこと)を祖神とする血縁団体で本貫は筑前国糟家郡阿曇郷、祖神を祀る神社は志加海神社三座、史料の初見は神功皇后摂政前記九月条の磯鹿の海人名草(あまなくさ)で対馬海峡の海上権を握っている。応神紀3年11月条には海人(あま)部の管掌を任務とする伴造(とものみやっこ)になった説話が述べられていて、伴造に与えられた最高の姓(かばね)が連(むらじ)である。阿曇連は天武13年(684年)12月に改めて宿禰(すくね)の姓を賜り、持統5年には墓記上進十八氏の中に入っている。
・「氏」通常の理解は祖神を同じくする血縁団体で氏上は氏人を率いるとともに、非血縁の半隷属民である「部(部氏)」を所有しているとする。だが「記紀」の用例によると上記の血縁団体のすべてが氏と呼ばれているのでなく、姓(かばね)を有し、大和政権内に一定の地位を占めている者に限られて、したがって国造・県主などの階層は氏と呼ばれない。
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安曇野歴史のあけぼの [歴史・伝説]

安曇野の歴史が年代別に整理されてくるのは6世紀に入ってからで、”安曇歴史年表”によると500年頃全国的に「県主(あがたぬし)」・「国造(くにのみやっこ)」などが定められはじめ、570年頃安曇氏が科野の国(信濃の国)に移住し、烏川・高瀬川・犀川沿いを開拓することから始まっている。
当時、大和政権は越(越後)の服従しない人々を支配下に収めようと、越と隣接する安曇野に安曇氏の一団を遣わしたのであろうと言われている。その後大化の改新(645年)が始まり、天武12年(684年)頃、安曇郡が定め置かれ、高家(たきべ)・谷原(矢原)・前科(さきしな)・村上の四郷ができたとされている。そして和調5年(712年)に「科野国」を「信濃国」と改められている。
その頃の古代長野県の郡名は下図のようになっていて、県歌「信濃の国」の”信野の国は十州に境連なる国にして”で始まるように十郡であった(その当時、木曽は美濃の領域であった)。
このように形ができてきた安曇野は朝廷との結びつきが強く安曇氏と同じく仁科氏も同様である。そして安曇野の歴史を考える時、安曇氏と仁科氏を抜きにすることはできない。

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