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拾ヶ堰の測量技術について [安曇野と産業]

「測量技術の背景」
江戸時代の測量技術は「町見術」「量地術」「規矩術」などと呼ばれていた。「測量」というのは中国の古い言葉「測天量地」を縮めたと書かれたものもある。「測天」は天文観測の「測る」であり、「量地」は土地を「量る」と区別していて江戸時代には「量地術」という言葉が使われて、一般に「測量」という言葉は使用されていなかったようである。
測量技術では水平を出すことが最も重要でり「水を盛る」とか「水盛り」とかいう言葉や「ろく」とか「ろくでなし」というものも測量の用語に関係がある。「ろく」という言葉は江戸時代には「直・正・陸」などの文字が当てられており、水平・平ら・まっすぐという意味であり直線や平面に対して垂直なときにも用いていた。したがって測量では鉛直・垂直・まっすぐ・水平などを含めて「ろく」といっていた。
「拾ヶ堰の測量技術」
拾ヶ堰を計画するとき、中島輪兵衛や平倉六郎衛門はどのような測量技術をもっていたのか不明の部分も多いいが、下図の参考資料に示してある保管されていた当時の「測量器」から想像すると、測量器を基準点に据え付けて中央の溝の部分を利用して「水盛り」をして水平をだしたのであろう、その方法は前方の目標地点に竿をたてて測量器から見通して何尺何寸(現センチ)の高さを測定して、それによって目標地点が基準点より何尺何寸高いか低いかを計算したと考えられ、この測定器を用いて描いた測量図面は中島輪兵衛の記録(古文書)と一致している。
この時代は松本藩には独特の測量術があり、伊能忠敬が全国的な測量をする時期でもあり、江戸などではもっと上等な測量器を使っていたようである。それらと比較すると中島輪兵衛の測量器は雲泥の差はあったが、この素朴な測定器を使って拾ヶ堰が計画されたころには信州の地形的特色があり民衆のエネルギーと大きな努力の足跡が感じられる。

*参考資料
 ・「安曇野と拾ヶ堰」「安曇野大紀行」より・・・著者:北野進 氏
 ・測量器、測量の様子図・・・「安曇野と拾ヶ堰」より

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