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仁科氏と安曇野(その2) [歴史・伝説]

仁科氏についての1級史料は大変少ないのが実情である。これを一志茂樹(1893~1985年)氏が未知の史料の発掘と、それまでの学説や史料に検証を加え、伝承や推定部分の多かった仁科氏研究や郷土史を一新した。
平安時代末期、仁科御厨(1051年頃)の管理人「御厨司」となり仁科神明宮を建立(年代不明)した仁科氏が”安曇歴史年表”に登場するのは約120年後の治承3年(1179年)の「仁科盛家が武蔵講師慶円などに千手観音像(藤尾覚音寺)を製作させる」時からで、翌年に源頼朝が伊豆で挙兵し木曽義仲が兵を挙げると盛家はこれに従い北陸道に転戦しており、この頃に館の内に居館を構えたとなっている。
鎌倉時代に入り、盛家の嫡男・盛遠の時代になると武士勢力が朝廷・貴族勢力を圧倒していくが、盛遠は弱体化した朝廷・貴族政権に忠実に従ったのである。また盛遠は中央での活躍と並行して地元で行なった大事業として仁科の庄(現在の大町市)の町造りにあたる。それは京都をまねて短冊形の町割りをし、道の真ん中に川を流し、居館を館の内から町の西方(現在の天正寺付近)に移し、仁科氏の祈願寺の浄福寺(現在の弾誓寺)も移転し、北端に仁科庄の鎮護のために熊野神社を勧請し若一王子神社を創建した。多くの京文化や禅宗文化が仁科氏の努力で安曇野に生まれたのもこの時期で仁科氏の洗練された美意識を伝え安曇文化として貴重である。
仁科盛遠は承久の乱(1221年)で敗れ、その後朝廷側に味方して敗北をくり返したが滅亡せず、その後信濃の守護として乗り込んできた小笠原氏の統治に抵抗し犀川沿いの武士を結集して大文字一揆の先頭に立って大塔合戦(1400年・盛房の時代)で勝利をおさめたものの文明12年(1480年)盛直の時代に穂高川の戦いで小笠原氏に敗れた。しかし逆境を重ねながら仁科氏は衰えるどころか次第に力を蓄え勢力拡大に努め、仁科神明宮の式年遷宮(21年に1度)をきちんとやりとげている。
このように鎌倉・室町・戦国時代の安曇野は仁科庄を基盤に勢力拡大に努めてきた仁科氏は、南は穂高から北は白馬の北域あたりまで勢力範囲として一族から分かれた支族として古厩氏を有明・堀金氏を烏川上堀・等々力氏を穂高・沢渡氏を白馬神域などに配置した。
大永8年(1528年)以降、武田統治下になった仁科氏は南安曇郡に安定した力を獲得していき、天文24年(1515年)以降、穂高神社の大旦那に就任(細萱氏から引き継ぐ)したことが大きく影響していった。その後永禄10年(1568年)仁科盛政は武田信玄により、上杉に内通したという理由で切腹させられ仁科氏の正系は断絶する。その後信玄の五男・晴清が仁科を継ぎ仁科盛信となる(「信濃の国」の歌に出てくる、仁科五郎盛信である)。仁科盛信は天正10年(1582年)高遠にて織田軍に攻められ自害し、事実上仁科氏の歴史は終わる。
このように仁科氏の安曇野における影響は大きく、仁科神明宮をはじめ神社仏閣及び多くの文化財を残している。そして安曇野の北に仁科三湖があり、北から神秘的な色をたたえた青木湖、小さく可愛い中綱湖、庶民的な木崎湖があるが仁科三湖の仁科の名も仁科氏の名声から名付けられたと言われ、この地の人々の思いが伝わってくる。
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コメント 1

水郷楽人

仁科といえば国宝の神明宮ですが、この神社は素晴らしいですね。
by 水郷楽人 (2010-03-10 21:18) 

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