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仁科氏と安曇野(その1) [歴史・伝説]

安曇氏が「雄壮さ」「ダイナミズム」を安曇野に残したのに対して、仁科氏は「節操」「根強さ」「優雅さ」「洗練美」を残したと言われている。
仁科氏の出目や血筋については、平姓・源姓・阿倍姓などさまざまな諸説があるが(仁科氏は自ら「平氏朝臣」と名乗り、平氏と同じ「丸に揚羽蝶」の家紋が後世まで使われている)近年の研究や調査によって、始祖は大和朝廷の命によって越の開拓に当たった孝元天皇の第一皇子大彦命の後と言われる布施氏や小布施氏と同族の阿倍氏であるという説が有力になっている。
阿倍氏は蝦夷平定の兵站基地を求めて姫川をさか上り、木崎湖周辺に定着した。阿倍氏が仁科氏に苗字を変えたのは”安曇歴史年表”から「永承5年(1051年)頃、仁科御厨(みくりや)成立」とあることから、現在の大町市の社地域の南部が伊勢内宮の領地「仁科御厨」になり現地の管理人「御厨司」となって、仕事につく居館を御厨のすぐ北方の”館の内”集落付近に移り、苗字をここの地名に仁科と改めたのだとされている。そして仁科御厨の鎮護の神として、伊勢内宮より勧請された神社「仁科神明宮」を建立した。
仁科神明宮の建立された時期は明確でないが、御厨が成立されてから間もなくと思われる。仁科神明宮に所蔵されている”式年造営の記録”-棟札-の最古のものは南北朝の永和2年(1376年)であり、それ以前の棟札はおそらく造営のたびに棟札は処分されたか、あるいは作られなかったかもしれない。1376年は御厨成立から320年以上もあいており、治承4年(1180年)頃には、仁科氏が館の内に居館を構えていることから、遅くとも1180年ころには仁科神明宮は建造されたのではないかと想像できる。
仁科氏は村上郷(現在の大町市)に深く根ざし壮官あるいは地方武士団の棟梁として統治する一方、中央と直結して中央政治と係わりながら平安末期から戦国時代までの長期間、安曇野の歴史・文化に大きく影響を与えた。

*仁科神明宮(国宝)の案内は:こちらから
*私のホームページを更新しました:新曲「たんぽぽ・わたげ」・・こちらから

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