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安曇氏と安曇野(その2) [歴史・伝説]

安曇氏が安曇野に定着(570年頃)したのは複合扇状地の最も深い湖沼があったとされる現在の穂高の地であった。農業に適さない安曇野の中でも耕作地が広く分布している場所で、安曇氏が先住民族を指揮して労役に従事させるには大変なエネルギーが必要であったと思われるが安曇氏が持参したとみられる鉄製農具は開拓にあたって大いに貢献したと推測される。又この地の犀川では信濃川を遡ってくる鮭が大漁に捕獲されて京都へも献上されたと「延喜式」という書物に記されていることから、海人族の安曇氏が大きな役割をになったと思う。
安曇氏が移り住んで約100年後の天武12年(684年)頃、安曇郡が定められ高家(たきべ)・谷原(矢原)・前科(さきしな)・村上の四郷ができ、安曇氏は安曇郡の郡司として統治にあたり郡衙(郡役所)を八原郷(現在の穂高)に置き、歴史上初めて安曇野をまとめたのである。
そして西にそびえる山々(北アルプス)の景観の素晴しさに海人族の彼らの心は強く惹きつけられて、当時山脈全体を「穂高見山」と呼ばれていたのを安曇氏は山の開拓を行なった祖先の名を重んじて「穂高見命」と呼んで神として崇拝し、海人族時代の神「綿津見命(わたつみのみこと)」とを穂高神社に祀り安曇氏の祖神とした。この穂高神社は安曇野の原点というべき神社で安曇郡唯一の名神大社であった。
信濃国安曇郡における安曇氏の文献の初見は奈良東大寺正倉院所蔵の麻の布袴に書かれた記事によると、平宝字8年(764年)10月「前科郷(現在の明科・池田)の犀川丘陵の麓に展開した村落の戸主(へぬし)の安曇部真羊(ひつじ)という人が献納したのが、麻布一反(長さ四丈二尺・広さ二尺四寸)で、この献上の取り扱いをした役人が郡司主帳の従七位上・安曇部百鳥と国司史生の正八位上・中臣殖栗連梶取であった」と記されている。
安曇氏の史記は少なく概要は以上であるが、安曇氏が郡司等の地位を細萱氏が引き継いだのは明白でないが、室町時代において穂高神社の造営発令者の地位の記録に
・文明15年(1483年)2月3日:大旦那・盛知・政所通知
・長亨3年(1489年)2月1日:治部少輔・大伴盛知・通知(細萱氏の本姓は大伴氏である)
の記録があるので、約900年後の頃に安曇氏は中央・地元とも勢力を失ったと思われる。尚、穂高神社の大旦那の地位はその後、仁科氏に引き継がれていく。このように安曇氏の勢力は失ったにもかかわらず「安曇」の名は消えることなく、雄大なエネルギーを秘めた安曇氏の心が穂高神社や御船祭りに引き継がれ現在に至っている。

*穂高神社の案内は:こちらから。
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