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安曇氏と安曇野(その1) [歴史・伝説]

大和政権の命により服従しない越(越後)を支配下に収めようと、越と隣接する安曇野に遣わされた安曇氏は大和政権を支える連姓(むらじ)をもつ有力氏族であり、北九州を本拠地に中国・朝鮮と航海・交易・海軍の仕事に携わっていた海人族を統率して政府の仕事に従事し、絶えず大陸に渡って大陸文化を積極的に取入れた極めて先端的な国際的な氏族であった。
661年大和朝廷が唐・新羅の連合軍と戦った白村江(はくすきのえ)の戦いでは阿曇比羅夫が大軍を率いて朝鮮に渡り陣頭指揮にあたっている(比羅夫は現在穂高神社の若宮に祀られている)。また大和政権内の推古朝で僧侶を統制する僧正・僧都に次ぐ法頭(はっと)の職にあり、大化改新後は宮中の食事を用意する内膳職につくという、海人族統率だけでなく多彩な能力を発揮したと云われている。
このように大和政権とつながりの強い安曇氏が安曇野に移住してきたことは、安曇野の発展に決定的なインパクトを与えたとおもわれる。
*参考資料
・「新撰姓氏録」にみる安曇連(連姓)は綿積神兒穂高見命(わたつみのかみのこほたかのみこと)を祖神とする血縁団体で本貫は筑前国糟家郡阿曇郷、祖神を祀る神社は志加海神社三座、史料の初見は神功皇后摂政前記九月条の磯鹿の海人名草(あまなくさ)で対馬海峡の海上権を握っている。応神紀3年11月条には海人(あま)部の管掌を任務とする伴造(とものみやっこ)になった説話が述べられていて、伴造に与えられた最高の姓(かばね)が連(むらじ)である。阿曇連は天武13年(684年)12月に改めて宿禰(すくね)の姓を賜り、持統5年には墓記上進十八氏の中に入っている。
・「氏」通常の理解は祖神を同じくする血縁団体で氏上は氏人を率いるとともに、非血縁の半隷属民である「部(部氏)」を所有しているとする。だが「記紀」の用例によると上記の血縁団体のすべてが氏と呼ばれているのでなく、姓(かばね)を有し、大和政権内に一定の地位を占めている者に限られて、したがって国造・県主などの階層は氏と呼ばれない。
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