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千国街道について [歴史・伝説]

千国街道(ちくにかいどう)は別名”塩の道”とも呼ばれ、越後の糸魚川から信州の松本まで120kmあり、江戸時代に千国村(現在の小谷村・千国)に番所があったことからそう呼ばれている。
この道は古代・大和政権との軍事及び文化関係のつながりとして重要な道であり、もちろん物資(塩・魚類・米穀類・麻・たばこ・紙・油類・茶など)輸送としての道であり、仁科氏も糸魚川方面から入り木崎湖周辺に定着したと言われている。また戦国時代には武田信玄と上杉謙信との戦いの逸話から”塩の道”とも呼ばれたのである。
糸魚川から松本までの120kmのうち、糸魚川から大町まで85kmは東西の山々に挟まれた狭い一筋の道は古代から変っていないが、大町から松本までの35kmわずか1日の工程ながら大きく分けて三筋の千国街道が安曇野を貫いていて、それぞれの時代を違えて開通している。
古代は西山(北アルプス)の麓を通っていて、南から梓川(北条-小室)-三郷(小倉)-堀金(田多井-岩原)-穂高(牧-小岩岳)-松川(鼠穴-神戸)へと続く道で、安曇野の扇央地を見下ろす展望の素晴しい道であった。現在ではりんご園・温泉郷・美術館など新たな観光地をつなぐ道として注目されている。
中世になり千国街道の幹線になったのは安曇野の中央部を貫く道筋で、南から住吉庄から矢原庄へそして仁科御厨へと北上する、三郷・七日市場-一日市場-中萱・六日市場-豊科-穂高-池田・十日市場-大町・社-五日町-八日町へと通じた当時生まれた定期市をつないでいた。中世は多くの物資がこの道を通るようになり、仁科氏などは関所を設けて通行税を取ったとされている。
戦国時代になると松本からの安曇野への第一歩が豊科・熊倉から犀川を渡るようになり、江戸時代には梓川東岸に熊倉番所が置かれ、安曇野に出入する人々や物資が取り調べられたとされる。
このように時代を変えて開通した千国街道は安曇野の人々による開発歴史と集落の発達した形で道が開通してゆく様子がわかり興味深い。
*参考図・・・千国街道の予測ルート図

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水郷楽人

千国街道懐かしいです。安曇野に2人ほど大学の同級生がいまして、社会人なって訪れたさいに道中を案内してくれましたよ。
by 水郷楽人 (2010-03-10 21:15) 

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