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縄文・弥生時代の安曇野 [歴史・伝説]

古代縄文・弥生時代の安曇野の歴史は明確に解らないので、安曇地方から出土する遺跡から内容を推測することになる。
縄文時代初期の文化は各地で土器が発見されているが不明な点が多い。遺跡としては大町市・コボレ沢遺跡、松川村・桜沢遺跡などがある。縄文中期になると気候が温暖期に入り照葉樹林から得られる木の実に鳥獣類が群れ、それを人々が食料として捕らえ豊かな生活の中で人口の増加もみられてきたと思われ、遺跡として安曇野市三郷地域黒沢川左岸の南松原遺跡から14軒の竪穴住居址から柱穴・炉が出土している。また穂高地域の離山遺跡から、南安曇郡最大級の集落が発見され、土器片とともに石棒・石剣・土偶などが出土している。この事は周辺の山麓台地が恵まれ、また千曲川水系(犀川)を遡ってくる鮭にも恵まれていたからだと考えられる。
稲作と金属器という新しい内容をもった弥生式文化は北九州から瀬戸内を経て濃尾平野に波及し、伊那方面から松本平・安曇平へと伝播したと考えられている。安曇の明科みどりが丘・大町市中城原・三郷黒沢右岸等の遺跡に弥生文化様相がみられる。またJR田沢駅(豊科地域)の北方、犀川と大口沢が合流する山麓高台にある町田遺跡から、弥生時代に稲作をしていた稲の種子や水田跡が発見されている。弥生後期になると遺跡が増え、穂高等々力・穂高神社境内の遺跡をはじめ13箇所の遺跡が出土している。大町市・社の中城原遺跡では周溝をめぐらせしている墓が発見されたことは階層的に一段上にある者の墓とされているものも出土しており、このことは推測になるが弥生後期には畿内の勢力となんらかのつながりが出来ていたとも考えられている。
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