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石神様たち [道祖神]

*安曇野には道祖神と共にいろいろの石神が祀られています。共同体としての村が成立し、暮しの中に民間信仰が広まり、地区ごとや同族・同姓・講などで組織された集団が、共同体の中心である場所や道祖神の傍に祀ったものもあります。
日本には古来から石や古木には霊威がひそみ、神霊が宿っているという信仰があった。したがって古代の神道行事で石は神そのものであり、石を祀る事は神を祭ることで、その行事が引き継がれたのである。
二十三夜塔
安曇野で二十三夜塔は道祖神と並んで祀られている場合が多く、道祖神より石も大きく人目をひきます。二十三夜は月に関係するもので、古来から太陽と月は信仰の対象として崇められ崇拝されており、月は満ちては欠ける永遠に繰返される死と復活のしるしと考えられ、生産・生理・母なる大地の神などの観念と複雑に結びつけ、月を女性的な印象として崇拝されてきた。人々は「講」を組織し、集まって精進・勤行し飲食を共にしながら月の出を待つ「月待ち」の行事を行い、江戸時代には全国的に行なわれるようになりました。
月の崇拝内容として、十三夜は虚空蔵菩薩、十五夜は大日如来、十七夜~二十二夜までの本尊は観音様、二十三夜は勢至菩薩を本尊として祀られ、供養塔として十三夜塔・十五夜塔・二十三夜塔が建てられました。そして月は勢至菩薩の化身であると信じられていたころから、二十三夜講が最も一般的になり全国に広まりました。
庚申塔
庚申(こうしん)信仰は中国の「道教」の教えから起こったもので、60日あるいは60年ごとに一度巡ってくる庚申(かのえさる)の時に、特殊なタブーを要求されるという信仰で、庚申の晩になると人体の中に宿っている「三尸(さんし)の虫」が本人の眠っている間に身体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪やあやまちを報告するので、そのために生命を奪われてしまうから、その晩は眠らずに慎んでいろいろ善行を行なわなければいけないとされ、これを「守庚申」といい、道教の道士のきわめて大切な修行とされ、民間にも庚申会という結社・組織ができました。
道教は奈良時代には日本に伝わり、平安時代には貴族の間に庚申の日に徹夜して長生きを願い、詩歌管絃の宴を催したり、語り明かしたりする習わしが定着し供養塔が建てられるようになりました。
安曇野では村の成立と併行して江戸時代以降、一層広まり講単位の供養塔が建てられはじめました。この地方では庚申様を「作神様」とか「福の神様」とか言われ、作神様は手が何本もあって一度に沢山のものを作れるからだといい、庚申塔には文字塔や手が何本もある庚申像があります。
恵比須と大黒天
恵比須も大黒も七福神の神々(恵比須・大黒天・毘沙門天・弁才天・福禄寿・寿老人・布袋の七神)です。安曇野周辺に見られる「恵比須」は狩衣・指貫を着け風折烏帽子を冠り、釣竿で鯉を釣上げた姿。「大黒天」は頭巾をかぶり、右手に打出の小槌を持ち、左肩に大きな袋を背負い、米俵をふんまえている姿のものが一般的で、この地方独特のものは見当たりません。
節分の夕、豆を入れた一升枡を神棚からいただいて家長が神前でお祈りしたあと「エビス・ダイコク福の神、鬼は外、福は内」と唱えて豆をまき、家族はその豆を拾いながら「ゴモットモサマ」と唱和する。それからあと家の鬼門(北東)から始めて四方に豆をまく、これは福の神の代表である恵比須・大黒に祈って家に福を招き、悪霊の化身である鬼を外に追い出し、災厄を払う願いからでした。
村の中心に恵比須や大黒天を祀るのも、村に福を招こうという願いのあらわれで、「出雲講」「甲子講」「えびす講」と呼ばれる組織もあり、今でもこの地方で11月下旬に開かれる恵比須講大売出しも招福と深い関係があります。

Douso-07.jpg

*参考資料:「安曇野・道祖神の神と石神様たち」・・・西川久寿男 著

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