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仁科氏と安曇 [歴史・伝説]

安曇の歴史を探ろうとすれば、安曇族に次いで仁科氏が中心であることはいうまでもない。仁科氏は「国宝・仁科神明宮」で述べたように、平安時代から戦国時代に滅亡するまで500年以上にわたって、大町市・北安曇郡・旧南安曇郡の北半を領域として支配していた豪族で、現在の木崎湖・中綱湖・青木湖が仁科三湖と称されているように、この地域に非常に影響を与えている。
北安曇地域は標高が高く豪雪地帯で農業生産には不利な地域で、百姓たちも支配者の仁科氏自身も決して裕福な身であったとは思われないが数百年にわたって領国内は穏やかであったようである。そのうえ仁科氏は信仰心の篤い一族であり、信濃へ曹洞宗の最初の導入となった大町市の霊松寺の開創をはじめ、社寺の開創・勧請も多く現在仁科氏関係の指定文化財は国宝1件・重文10件・市町村指定の文化財52件と少なくない。
長い年月にわたって安曇地方を支配した仁科氏がどのような素性でどこの出自であるかについて大いに興味あることであるが、はっきりしたことはわからないのが実情である。ただ仁科家に語り伝えられていた先祖話として仁科氏の出自について「信州仁科之元祖奥州国主安部貞任、合戦折負此所落来 仁科名字成・・・・」と記してあり康平5年(1062年)に賊徒の首魁として殺されたはずの安部貞任(実は生存していて)安曇に落ち延びて来て仁科の祖となったのだといわれ、書留の終わりには仁科氏の森城の内に祀られている安部神社は先祖の貞任公を祀った宮であると記している。この神社は大町市平の森集落の鎮守の宮として現存し、祭神は安部貞任である。
このことは昭和55年6月に県古代中世史研究会の折、”仁科氏は大和の安部氏の流れを汲む氏族である”と発表した、故一志茂樹氏の新説が現在では定説になっている。

*参考資料:安曇野大紀行より
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