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道祖神と子供組 [道祖神]

安曇野は今では長野県有数の米どころになっていますが、江戸時代初の安曇野の開拓の特徴は水なき大地に共同の力で水を引き、その水を分けあって耕地と居住区を作ってきた。
そのため開拓村にとって大切なものは子供の時から兄弟のように団結の力で後継者集団を育てることであり、そのことから子供組・若者組の共同体が生まれ、そして信仰祭事のよりどころとして道祖神を造立し、その祭りが伝承されてきた。その伝承の実態として「道祖神と子供組」の内容を大正時代(20世紀初)にはどうであったかをご案内します。
*参考資料:安曇野道祖神(創林社)・・井上清司・中野正實 監修解説
その頃の安曇の結婚式では必ずといっていいほど「道祖神のお導きでおかげをもちまして・・・」という挨拶がなされた。子供達はこうした父母から生まれ、30日ほど育てると「宮参り」をするが、その前に必ず村の道祖神にお参りをして、まずこの神様の氏子にしていただき、成長を守ってくださるよう供物を捧げ「道祖神さまこの子を氏子にしておくんなさし・・・」とお願いした。
やがて数えの七ッになると七ッ坊主といって寺小屋(明治以降は学校)へ、この入学前にも氏神と道祖神にお参りした。安曇の親たちはこの時から(ことに男の子)「村の子」として育つようにという願いをこめて、その村の「道祖神なかま」という子供組織に預けた(今でいう「校外活動や社会教育」の一切をこの「子供組」に一任した)。この組織は六年生のうちから大将を決め、六段階に上下のけじめのついた自主組織で学校からも父母からも「ひも」がついてなかった。
この道祖神仲間の日常は遊びを通して、集団活動のルールを覚え、がまんすること・負けじ魂を培う・子守りをすることによって親の手助けを覚える・水泳・相撲で体力をつけ・冬は近隣の雪かき・井戸水汲みなど子供にできることは何でもやる事で「村の一員」としての自覚が芽生えた。
暮れから正月にかけて道祖神の門松・しめ作り・道祖神小屋作り・「三九郎(どんど焼)」の木を伐ることから、わらや門松集め・この火祭りの燃え残りを薪に切って束にして村人に買ってもらい、その他の寄付で文房具や菓子を買うことから分配まですべて大将の指揮のもと統制がとれていた。
また田植え・麦刈り・麦たたきの手伝いはあたりまえのことで、農休みがくると「子ども相撲」をやり隣村の子供との親睦の意味もあり、大人になって村の仕事をするようになって大いに役立った。このように子供にとって道祖神は「何の神さま」であるかなどというよりも、むしろ童心が成長してゆく過程の子供の生活のなかに生きていた、といった方が適切な言い方のようである。
やがてこの子供組から年々村の若衆組へと補給が続き、一家の後継者となり、安曇の人たちにとって道祖神はどうしても必要な神であったようです。
*尚、慶長8年(1603年)徳川家康が将軍となり戦乱が一応おさまったしるしに翌9年から庚申待・甲子待・左義長(どんど焼き)などの民族行事をゆるしている。この事は村落でのいろいろな祭事を含めて道祖神信仰にも影響を与えたと思います。
*ここで安曇で昔から唄え継がれている<道祖神のなかま>の一説を紹介します
  安曇平らのまん中で岳に雪形見えるころ 道祖神のなかま入り
  村の子としてなかま入り 七ッ坊やでなかま入り
  安曇平のお正月 三九郎の木を伐りに 暗い夜道をお林へ
  六年生の大将はうまく伐るなと思ったが かついで帰る道すがら
  「ぶらさがってるぞ」と叱られた 一年生の背ちっく
  道祖神に餅そなえ 星がまたたく小正月
  三九郎に火をつけよ 燃えろ燃えろどんどの火 燃えろ書初め習字紙
  あがれあがれ手があがれ 祓えはらえ焼きはらえ 困ったことは焼きはらえ
  燃えろ燃えろ胸のうち うたえうたえどんど唄
  三九郎ォ三九郎ォ 弁慶坊ォべんけいぼう
  初めてみやこへのぼるとき またからけまらつんだしてェ・・・・・
  歌の文句はおぼえたが 意味はなんだかわからない
  三九郎の火に焼べた 餅がふっくらあの香り
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